映画「天気の子」を観ての考察、というか感想。

※この内容は多分にネタバレ、個人考察を含みます。

未鑑賞の方、個人的な考察なんか聞きたくないという方はご覧にならないことをお勧めします。 あと、かなり長文です。 また、民俗学云々と偉そうに書いていますが、私は学生時代に講義を受けた程度で全然専門ではありません。お見苦しい勘違いなどあるかも知れません。

●はじめに

2019年7月19日公開の映画「天気の子」、皆さんはもうご覧になりましたか? なんでも最初の3日で興行収入60億円を超えたんだとかで、観客の高い期待を感じますね。 流石は新海監督。 ところが、私が観に行った7月23日の回は、公開4日目にしては比較的ゆったり。 観に行ったのが田舎のシネコンのレイトショーだから、というのはもちろん大いにあるでしょうが、 それでもシネマイレージデーに当日ふらっと立ち寄った割にいい席に着けたのは拍子抜け、といった感じでした。

実際映画を観て感じたのですが、「この映画、『君の名は。』と凄く似て見える」。 これは帰り際の他のお客さんからもちらほらと聞こえた感想でもありました。 それもそのはず、全体の流れをざっくり説明すると、こんな感じ。

  1. 若い男女に不思議なことが起こる。
  2. 超常的な力で突然の別れが訪れる。
  3. 主人公はヒロインに会うために周囲を押し切って努力をする。
  4. 神様的な力によって再び出会う二人。
  5. 事態の収束としばしの別れ。
  6. 少しの時間を経て再開する二人

ここに東京の山手線沿線の景色と、俗にいう「新海誠っぽい」(と、云っても今回はちょっと雰囲気が違ったのが印象的でしたが)風景画が合わされば、「似た感じ」に見えるでしょう。 何か新しいもの、突飛なストーリーを求めてきた人からすればそれこそ拍子抜けも甚だしかったのではないかと推測できます。 (実際、はてブの上位にも昔のアダルトゲームのシナリオと比較をされている記事がありますよね)

ただ、個人的な考察を述べさせていただくならば、この感想はすごく勿体無い。 私はどちらかといえば斜に構えて物事を見がちで、流行に対して反抗してしまうような性格という自覚がありますが、 そんな私があえて言わせていただきたい。 ちょっと悔しいけど、『天気の子』、すごく面白かったです。 この素晴らしい映画を多くの人の中で「『君の名は。』と似た感じ」で終わらせてしまうのは実にもったいないと思い、今回筆をとりました。

●考察

さて、考察に話を戻しましょう。 この映画には大きく分けて3つの見方があると考えます。

  1. あらすじ通りのラブロマンス映画としての見方。
  2. 民俗学、神話学的な見方。
  3. そして最後に、『君の名は。』と自分自身の幸福のために行動するお話としての見方です。

あらすじ通りのラブロマンスとしての見方は、特に考察の余地はないと思いますので割愛しますが、恐らく似て見える作りにしているのは意図してのことだと思います。 これは、一つに神話学的なテーマを下敷きに若い男女の話をする以上、『君の名は。』と似た雰囲気となることは避けられないからというのもありますが、 このお話が『君の名は。』と同じようでいて実は逆といってもいい、対になる内容であることを演出しているのではないかと考えています。 この辺りについては、後で述べます。

民俗学、神話学的な見方

今回の『天気の子』も、前作『君の名は。』と同様に民俗学的な土壌を持っています。これは、『君の名は。』BD特典の中に収録された新海監督の講演の中で詳細に語られていますが、川や線をある種の結界と捉えたり、食べ物を口にする事を異界の住人になる事と捉えていたりするから伺い知る事ができます。(この辺りは、加納新太さんの書かれたノベライズ版『君の名は。 Another Side: Earthbound』の方がより感じられるかもしれません)

また、「むすび」という言葉を象徴的に使い、ある種の言葉遊びとも取れるようなダブルミーニングや言い換えを使うという点でも顕著です。 こうした見方を『天気の子』に持ち込んでみましょう。

1. 映像に見る民俗学・神話学的な土壌

1. 異界に関する演出

1. 陽菜が廃ビル屋上の神社の鳥居を潜り抜けて、雲の上へ至るシーン

まず、冒頭、ヒロインの陽菜が廃ビル屋上の神社の鳥居を潜り抜けて、雲の上へ至るシーン。 これは、鳥居という結界を潜り抜けて神様のいる異界へ入ったという事を示すシーンであり、この後の物語にそうした見方を持ち込む事を宣言するシーンであるとも言えるでしょう。 ビルに差し込む光(雲の切れ間から柱のように差し込む光)を別名「天使の梯子」と呼ぶことからも「天界(天海)」に至ったと読み取ることが出来ます。その結果陽菜は異界に至り、「魚が龍に変わるように」、所謂「人間」とは異なるモノに変化します。

2. 雲の中の魚と龍のシーン

龍という言葉で多くの方が思い浮かべる言葉の中に、「登竜門」という言葉があるのではないかと思います。 これは、滝を遡り「龍門」に至った鯉は龍になるという伝説からくる言葉であり、鯉のぼりなどの行事にも見ることが出来ます。 後でも触れますが、この物語の性質を考えればこの「魚(鯉)」は「コイ」であり、「恋」と読み換えることが出来るかもしれません。と、すれば、魚の形が大きな鯉ではなく、金魚のような姿であることは、空と繋がっている陽菜の「気持ち」が恋の仲間でありながら、恋に至っていない事を指す演出と受け取ることができるでしょう。

3. 山手線、踏切、鳥居などに見る結界

さて、都市伝説に山手線を鬼門を封じるための結界であると見る向きがあることはご存知でしょうか? 特に日本では、何かを囲む、区切るものを結界を超える(異世界に至る) と見る向きがあります。 作中で主人公である帆高の仕事は「歴史と権威ある雑誌」であるところの「ムー」向けの記事をまとめることでしたが、これも「都市伝説を下敷きにした描写」をしている事を宣言しているものと考えられます。 東京に暮らす友人に聞いたところによると、舞台となる田端は山手線で唯一踏切がある場所なのだそうです。

4. 廃ビルという積乱雲と異界

異界といえば、屋上に神社がある廃ビルも異界と言えます。 東京という華やかな大都会において、誰も立ち入らない、誰もいない空間はなるほど異界かもしれません。 (実際に新宿には廃墟のような雑居ビルがそれなりの数あるようですので、実際には考えすぎかもしれませんが) このビルは異界であると同時に、層をなした積乱雲の見立てであると受け取ることもできます。 同時に、嘗て香港に存在した「九龍城砦」と呼ばれた有名なスラムから先ほど触れた「龍」を想起しましたが、やはり考えすぎかもしれません。

3. 食事シーンに見る「よもつへぐり」への言及

要所要所で挟まれる食事のシーンは、『君の名は。』の口噛み酒のシーンほどではないにせよ「その場の住人となったことを示すもの」として描かれています。こちらは日本書紀などにも見られる「よもつへぐり」の描写であり、類似の表現は「千と千尋の神隠し」などにも見られます。 一例を挙げるならば、帆高が東京に来てからネットカフェや路上を転々とするシーン、アルバイト先に住み込むようになったシーン、陽菜の家を訪れるシーン、そして海に沈んだ東京で訪ねたお婆さんの家のシーンなどです。 こうした「食べ物」と「場所」が結びついている事を考えれば、船上で帆高が須賀に食事を提供するシーンや猫のあめに餌を与えるシーンは居場所を与えた、と受け取ることができるかもしれません。 須賀は居場所を与えた側ではないかとおっしゃる声はごもっともですが、後の「ライ麦畑でつかまえて」を考えれば、助けられたのは須賀の方という見方も満更ハズレではないように思います。

2. 龍に見る、力と知恵についての演出

八岐大蛇や九頭龍伝承に見られる通り、神話における龍は川や水の流れと強く結び付けられ、同時に力の象徴として描かれることが多い存在です。 (こちらもやはり、『千と千尋の神隠し』において、ハクの存在で示されています。凪のデザインがハクと似通って見えるのも、あるいはそうした背景があるのかもしれません) これらを「退治した」とされる伝承の多くは「治水を行なった」という歴史的な出来事に結び付けられ、多くの場合で「知恵」という「武器」を用いることになります。

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1. 空の世界を駆ける龍の存在

空の上の世界で陽菜や帆高を待ち受ける龍の存在は、一種抗いがたい力を象徴しており、これは気象というこの世の循環を司る力であり、子どもにはどうすることもできない大人の世界の力を示すものと受け取ることが出来ます。 このことは、物語終盤大人たちの制止を振り切って陽菜を連れ戻しに雲の上へ侵入した帆高が、龍に拒まれ飲み込まれる様からも感じられます。

2. 川、水の象徴としての龍の宣言

実際に劇場で観覧された方はお気付きの通り、龍を水の化身として扱うということも、劇中に明示的な宣言があります。 取材のために占い師のようなおばさんの元へ帆高と夏美が取材に訪れるシーンです。 (友人はこのシーンの野沢雅子さんの演技があまりにも野沢雅子さんの印象が強すぎて、実はアイデンティティの田中さんなのではと疑っていたら、セリフを聞き漏らしてしまったそうですが)

3. 龍を退治する「武器」

残念ながら、(私が見ている限りでは)『天気の子』の帆高少年の「武器」は「知恵」ではなかったように感じます。 どちらかといえば、(ある意味で思春期特有の)「秘めた感情」であると表した方がしっくりきそうです。 劇中では、拳銃がこれに当たります。 この拳銃は行きがかり上路上で拾ってしまったものですが、どうしても我を通したい、という場面において大人たちの力(=龍)に逆らうための「力」となります。 と、同時に、これは「罪」そのものであり、「知恵の樹の実」を「口にし」て、「感情」と「善悪」を得てしまったという旧約聖書を彷彿とさせる流れから、帆高と陽菜は居心地のいい場所(=楽園)を追放されてしまうのです。

深読みしすぎかもしれませんが、帆高を追う刑事たちが「今はなんでもそれに書き込んじゃうんだろ?」と話しているスマートフォンやコンピュータが全てApple製で、はっきりとわかるようにロゴを書き込んでいるという点も、「現代の若者の知恵であり、罪である」ことを意識しているのではないかと感じさせます。

2. 言葉遊びに見る神話学、民俗学的な土壌

1. 絵から読み取れる言葉としてのテーマ

前作『君の名は。』では「むすび」 という言葉が繰り返し使われ、一つのテーマを表す言葉として使われていました。 他方、『天気の子』では「むすび」に相当する言葉は登場しません。 しかし、絵や文脈の表現として「わ」が挙げられるのではないかと考えます。 これは、作中で帆高が陽菜に送る指輪や須賀が自分のものと亡くなった奥さんの形見と合わせて後生大事につけている指輪のワ、(擬似的とはいえ)家族という人の輪(あるいは和)、山手線が作る輪、台風のような気流の環、手錠の輪、我のワ、と云った具合に枚挙に遑がありません。 変わったところでは、陽菜と帆高、凪がホテルに宿泊するシーン。 日付が変わって00:00に変わるのも、時計の針が一周する輪であり、ゼロという円形を表しているように受け取ることも出来るかもしれません。 また、輪から転じて円→エン、煙、厭、縁、¥といった具合に、エンに纏わる記号も多く現れたように思います。 こうした言葉遊びは民族学などではよく見られ、例えば日本書紀に登場する神様の一柱である「火折彦火火出見尊」(ホノオリヒコホホデミノミコト)は、産屋が燃え始めた時に生まれたために「火火出見」尊と名付けられましたが、この「ホホデミ」が転じて古事記では「天津日高日子穂穂手見命」(アマツヒコヒコホホデミノミコト)と記され、「穂穂手見命」という文字から「山佐知毘古」(山幸彦)としての顔を持ち、狩猟や農耕の神として農村部の神社に祀られている場合があります。

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2. 劇中に現れる「輪」の表現

ここでは、先述した輪、和、環をまとめて「輪」として記載します。

1. 物語の主張に大きく関係する「輪」

正直に白状すれば、物語の主張そのものに大きく影響する(つまり、理解していないと意味が読み取れなくなる)「輪」の表現は決して多くはないと思います。

1. 読み取れないと、物語の意味が変わりかねない「輪」

例えば、水浸しになった東京で訪ねたおばあちゃんが話す「ある意味元どおりなのかもしれないね」というのが、この世界を取り巻く「輪」であると感じられなければ、「このおばあちゃんが個人的に、諦めてしまいたい気持ちから発した言葉かもしれない」と受け取ってしまうことも出来ます。もっとも、どちらかといえば、この発言は、「輪」であることが感じ取れなくても「実は何にも変わってない」という事を観客に伝えるための補足説明のようなものだと思っているので、先述のように「個人的な…」というような印象を抱いた人は少ないのではないでしょうか。

2. 読み取れなくても支障はないけど、心情を表す重要な「輪」

先のおばあちゃんの発言に比べれば、些細な問題ですが、心情を表現する上で重要であると考えられる「輪」がいくつか登場します。

例えば、刑事に逮捕されそうになった帆高にかけられた手錠。これは「輪」であると同時に罪の象徴であり、帆高を拘束するものです。続いてのシーンで刑事の手を逃れた帆高は空の世界から陽菜を連れ戻し、一緒に空から落ちます(これも文字通り堕天の表現であり、原罪に塗れた現世へ帰っていく二人が象徴的です)。この際二人の手は離れそうになり、帆高は必死で陽菜の手をとりますが、決して手錠で二人を繋ぐことはしません。 これは二人の関係が、互いを拘束し合うものではなく、罪でつながっているわけでもない事を象徴するとても美しいシーンだと思います。 そのまま二人は両手をつないで、「輪」になって地上へと戻ってきます。 余談ですが、今回の『天気の子』には、『エヴァンゲリオン』を彷彿とさせるシーンが数多くありました。このシーンもまた、『劇場版エヴァンゲリオン Air/まごころを君に』の中で、「辛くても他人のいる世界で生きていく」ことを決意したシンジがそれまで一つに溶け合っていたレイの手を敢えて握手という形で握るシーンと似た演出といってもいいかもしれません。 同じく新海監督の『ほしのこえ』と『エヴァンゲリオン』の庵野監督作品である『トップをねらえ!』、あるいは『エヴァンゲリオン』のエントリープラグのインテリア表現を比較したことのある方はご承知の通り、新海監督の表現の一部には庵野監督の影響がありますので、故意にせよ偶然にせよ、当たらずとも遠からずであると思っています。

また、地上に戻った陽菜は、帆高とともに「鳥居」を跨ぐ格好でチョーカーの切れた姿で倒れています。 このチョーカーもまた、「天気の巫女」という役割に日菜を縛り付ける「輪」であり、枷であったと見ることができます。 もちろん、「鳥居」は「跨いだまま」ですので、彼女が普通の「人間」に戻ったわけではないのでしょうが、役割からは解放された事が伺える一コマとなっています。

そして、「輪」といえば指輪。 こちらもキーアイテムとして登場しますが、個人的には帆高、陽菜の指輪よりも須賀の二重に着けられた戒めのような指輪の方が印象的ではありました(年齢的なものが大きく影響している気もします)。帆高が陽菜に送った指輪は、空の世界ではつけていることが出来ず落としてしまい、帆高は陽菜が落とした指輪を手がかりに空の世界への侵入を果たします。 この指輪は(おそらく劇場で多くの方が感じたと思いますが)陽菜を地上の世界に縛るものでしょう。 全体的に龍、鯨、金魚など水棲生物の表現が多い中で、地上に縛るにも関わらず、そのモチーフは「翼」になっています。 そして「翼」であるにも関わらず、空の世界ではこれを持っていられませんでした。 このことから、指輪(=帆高)は陽菜を繋ぎ止めて置くことができず、陽菜は翼(=自由)を失ったと読めるでしょう。 あるいは、陽菜の翼が穂高の元へ飛んだ、と見ることも出来るかもしれません。 この観点から見ると、陽菜は雛人形のヒナ、つまり身代わりとして川に流されるもの、「鳥」の「子ども」としてのヒナ、そして感じの通り陽光を表す陽菜の意味を重ねて名付けられているのではないかと推測することができます。

3. 家族の「輪」

帆高は家出少年、陽菜と凪は両親を亡くして二人だけで生活、須賀や夏美は職場の人間です。 実は、この映画には血のつながりという意味での家族が、家族だけで食卓を囲むシーンというものがありません。 陽菜と凪、須賀と夏美にはそれぞれ血縁関係がありますが、この場合でも帆高を含めた擬似的な家族での食事です。 帆高の両親はもちろん、陽菜や凪、須賀の回想としても、両親や夫婦の食卓は見えてきません。 一方で、帆高を含む「家族」の食卓は随所に描かれ、中でもホテル宿泊時の食事風景は「輪」を表す表現をしっかり描いているように思います。 ラブホテルに備え付けられた冷凍食品とインスタント食品ばかりの食卓ではあるのですが、3人は大いにこれを楽しみ、お互いに分け合いながらこれを食べます。飲み物などでは特に一つの飲み物を複数人で分け合う時に「回し飲み」という言い方をしますが、言うなれば「回し食い」です。3人がはしゃぎながら食事をするこのシーンは、ある意味で子どもが騒いでいる風景のようでもありますが、幼いながらも家族であり、「輪」である事を感じるシーンだったように思われます。

4. 音の読み替えによる「輪」→「我」

さて、少し前にも触れた通り、この物語には民俗学的な土壌が存在し、民俗学には音による文字の読み替えが珍しくありません。そうした見方から、少し強引かとは思いましたが、「輪」を「我」と読み替えているのではないかと推測しています(これは強引なので、私見だらけのこの文章の中でも特に無視していい部類だと思います)。 これまた後で触れますが、この物語は抗いがたい「流れ」の中で自分自身の思い、つまり「我」を「通す」お話です。 それは時に拳銃という形で表現され、時に線路を走る姿で表現され、時に海を渡る船という姿で表現されますが、総じて線の形です。 強引ですがこれらは「通す」ものであるだけでなく、「我」であるという意味で、「輪」に加えることができるのではないかと考えています。 事件性という観点でも重要なのでしょうが、「突き通すもの」がナイフではなく拳銃なのはライフリングの螺旋、走っていく線路が山手線なのも「環状」だからではないかと勘ぐってしまいます。

3. その他出典と演出に関する考察

1. 『ライ麦畑でつかまえて

他の方も既に指摘されているようですが、ネットカフェで帆高が読んでいる本は『Catcher in the rye』、つまり『ライ麦畑でつかまえて』です。 高校生がネットカフェで読む本としては少々堅い気もしますが、『天気の子』の特に出だしの辺りはこの本を下敷きにしているように感じます。 詳細な内容に関しては差し控えますが、この本の中で主人公が「ライ麦畑で遊ぶ子どもたちが崖から落ちそうになった時に受け止めてあげられる捕手のようなものでありたい」と願ったように、須賀は船から滑り落ちそうになる帆高をキャッチします。 そして、『ライ麦畑』の最後に主人公が幸福な気持ちになれたのと同じように、須賀も自分の幸福に近づいている、と見ることが出来ます。

須賀は帆高と時に相似的に、時に対象的に描かれており、ある意味ではもう一人の主人公であると同時に、大人の象徴であり、後悔を抱いたまま大人になった帆高の未来の姿と見る事も出来ます。 二人(と、猫のあめ)の類似性は劇中で夏美と陽菜の会話にも読み取れますし、対比構造は終盤の廃ビルのシーンでの色使い(帆高は白、須賀は黒いシャツをそれぞれ着用している)などでも印象付けられています。 「大人になれよ」、「分かってくれるさ」と繰り返す須賀は如何にも「大人」の姿ではありますが、同時に、ここまで帆高を追ってきたのは罰と拘束の象徴である警察を除けば須賀ただ一人でした。 例えば線路をかけていくシーンは、最近線路内に侵入した写真をSNS上にアップロードして大問題となったことからもわかる通り判りやすい犯罪であり、周囲の人々は口々にこれを指摘しているにも関わらず、誰一人として彼を止めたり追いかけたりという行動には出ていません。 このことからも、須賀はただの「大人」ではなく帆高を受け止める役割を持った人物であることが分かります。

2. 『君の名は。

他ならぬ新海監督自身の作品ですが、『天気の子』には多くの『君の名は。』のキャラクターが登場します。しかも、『君の名は。』に『言の葉の庭』の雪野先生が出てきたときの様なゲスト出演的な長さではなく、(特に瀧との)しっかりとした会話があります。 もちろん、これは単純に「粋な計らい」としての演出であるのでしょうが、同時に「この作品世界は『君の名は。』と地続きであり、同様の文法を用いて読み解いて良い」ということや、「『君の名は。』で主張した『むすび』も無視していない」ということを主張しているのではないかと思います。また、冒頭にも記載した通り、この物語の構造はあまりに『君の名は。』に似通っています。これは後述する『君の名は。』との比較構造を明確にするために下敷きとしているのだと個人的には考えています。

3. 「HONDA」

『天気の子』には夏美の声優として本田翼さんが出演されています。 この夏美が、やたらとHONDAの乗り物に乗ることが気になった人も多いのではないでしょうか。 例えば夏美の車はHonda N oneですし、バイクはピンクのスーパーカブです。 HONDAのバイクのロゴといえば、ご存知の通りウィングロゴですから、ホンダウィングに本田翼さんが乗っている、というダジャレになっています。 さて、この本田翼さん演じる夏美ですが、バイクに乗るシーンでは半ヘルメットにゴーグル、スカーフという出で立ちで、丸善ガソリンのコマーシャルを彷彿とさせます(もっとも、こちらはオープンカーでしたが)。 このコマーシャルが放送された1960年代、HONDAは米国で「You meet the nicest people on a HONDA」(HONDAに乗っていい人と会おう)と題した広告を展開しています。この広告に使われたイラストが赤いスーパーカブでした。直接的な関係を疑うのは強引すぎるかもしれませんが、帆高はHONDAに乗って大切な人に会いに行ったことを考えれば元ネタになっている可能性はあると思います。

www.honda.co.jp

4. 「鯨」について

『天気の子』には先に触れた龍や魚と共に、鯨が数回登場します。 東京という土地、家出少年である主人公、そして空中を泳ぐ鯨から、『バケモノの子』を思い出された方も多かろうかと思います。 (タイトルからして、『○○の子』という共通点がありますしね) 『バケモノの子』での鯨は、ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』をベースにしており、肥大化した劣等感や悪意の象徴として描かれていたと記憶しています。(少し前の作品ではありますが『バケモノの子』をまだ鑑賞されていない方もいらっしゃるかもしれませんので、具体的な内容や比較は差し控えます) 一方で、『天気の子』では姿こそ登場するものの、鯨は物語の中で目立った役割を演じません。逆に、大した役割もなくただ賑やかしで描かれているというにはあまりにも多く画面に登場します。 (寺院の天井絵に龍が描かれることは珍しくありませんが、龍と並んで鯨が大きく描かれている例は少なくとも聞いたことはありません) 私はこの「鯨」は、天気の巫女の成れの果てであると考えています。 これは鯨が、陸から海に返っていった生き物だからです。 劣等感や悪意と見做すよりは、空に返っていっけれど、空の生き物とは同じに成れなかった巫女の姿、と考える方がしっくりきそうです。 (極めて個人的な話で恐縮ですが、少しBuzyの『鯨』を思い出しました)

②ストーリーラインを追って観る

と、云っても、私が思いつく範囲、という程度ではありますが。 本来は、こちらが正当な映画の見方であると思います。 同時に、敢えてゲームや他の作品との類似性を追いかけなければ、多くの人が感じ取っているであろうことに、わざわざ私見という形で踏み入るもの無粋かと思います。 しかし、「ゲーム原作っぽい」、「『君の名は。』っぽい」と感じている人がいて、尚且つ「そうじゃないって思ってるやつはどんな風に観るの?」ということが気になる方向けに書かせて頂きたいと思います。

1. お話の構造

はじめに、『天気の子』という作品の構造をおさらいしたいと思います。 冒頭でも述べた通り、この物語のストーリーの流れは非常に『君の名は。』に似ています。

  1. 若い男女に不思議なことが起こる。
  2. 超常的な力で突然の別れが訪れる。
  3. 主人公はヒロインに会うために周囲を押し切って努力をする。
  4. 神様的な力によって再び出会う二人。
  5. 事態の収束としばしの別れ。
  6. 少しの時間を経て再開する二人

しかし、実のところ『天気の子』と『君の名は。』は逆と云っても差し支えのないほど異なる主張を持っています。 簡単に云うと、『君の名は。』が運命的に出会った境遇の全く異なる男女が、みんなを救って世界を変える物語であるのに対して、『天気の子』は偶然出会った境遇の似た男女が、周囲に迷惑をかけたとしても自分自身のエゴのために戦う物語であり、世界を変えません。

『天気の子』は「世界の形を変えてしまった」というモノローグで始まるではないか、とご指摘を受けそうですが、先に述べた通り「何も変わらない」、「ある意味元どおり」であることは作品終盤におばあちゃんの口から語られています。東京が海に沈んでしまった絵はいかにもショッキングで、「世界の形が変わってしまった!」ように見える絵ですが、元々埋立地であることを考えれば「海に還っていっただけ」だから「世界としては何も変わらない」と主張しています。 3年間も雨が降り続けている点についても、途中取材に訪れた気象神社の神主さんの話にある通り地球規模で見れば別に珍しくないことであると云えるでしょう。雨なんて世界中のどこかでいつも降っているものですし、地球創成期には地球全体に数百年降り続いたなんて話もあるわけですから、3年なんて誤差の範囲内です。もちろん、現実に暮らす私たちには途方もない話ではあるのですが、この物語の中では「些細なこととして扱う」ことが示されているわけです。

では、何が形の変わってしまった「世界」なのでしょうか。 ざっくりいえば、「自分の中の世界」、もしくは「自分の目に映る世界」の形が変わってしまった「世界」です。 その点『君の名は。』では、現実世界の形が変わってしまった(彗星衝突による死者が出なかった)一方で、二人の関係性、内面世界は変化していません。詳細は差し控えますが、『君の名は。』が運命でむすばれた男女(元々一対である比翼の鳥、あるいはプラトンの云うアンドロギュノスのような存在)にまつわる話なので当然といえば当然の成り行きです。詳細はBD特典で新海監督が語られていたような気がしますので、そちらをチェックしてみてください。

一方『天気の子』にはそのような「運命」と云うものは存在しません。 彼らは金のない子どもにはあまりに冷淡な大都会で、お互いを拾うように出会い、自らの意思でお互いの隣にいることを選びます。帆高の目線で語るならば、息苦しく感じていた家族や居場所がないと感じた世界から、一転して大切な家族がいる、守りたい世界に変わったわけです。 そしてこれは、圧倒的大多数の人々に迷惑をかけてでも(陳腐な言い回しになりますが、「世界を敵に回してでも」)貫き通したい極めて個人的なエゴなのです。 劇中須賀が語っている通り、程度の違いはあれど「一人の犠牲で雨が止むならその方が良い」と大勢の人々が考えていることは否定できません(不謹慎で嫌味な云い方ですが、例えば私が一人犠牲になれば東日本大震災がなかったことになるとしたら、私が死を選ぶべきだと考える人がいて何の不思議があるでしょうか)。

君の名は。』で瀧は三葉を救うために戦いますが、本当に三葉を助けたいのなら話を聞かない村人のことなど放ってとっとと村から脱出すればいいのですが、村人全員を救うことを最後まで諦めませんでした。

『天気の子』において特にこれを象徴するのが、刑事から逃げ出した帆高が線路の上を走って廃ビルへ向かうシーンから、廃ビルの中で須賀や刑事たちに拳銃を向けるシーンでしょう。 拳銃はもとより線路のシーンも先述の通り事件がありましたので観客にも分かりやすい犯罪行為です。 実際大勢の人が線路上を走る帆高に非難の声を浴びせますが、帆高はこれを振り切ってと云うよりは無視して自分の道を走っていく訳です。意識的な演出であるかは自信がありませんが、彼が走っている線路は外回りであり、「本来あるべき流れ」から逆行している、と云う点も加えていいかもしれません。そんな彼に周囲の人間たちは非難の声を挙げこそすれ、追いすがって止めるほど彼に親身になったり、もしくは障害となる気骨はないのです(このあたりは演出なのだと思っていますが、東京と云う土地柄であると言われれば否定しきれない部分はあります)。

刑事たちは「大人」というよりも「規則」や「罰」の象徴ですから、「周囲の人々」とは違って力ずくで帆高を止めようとします。 ここで帆高はただ逃げ出すのではなく、自分の意思で明確に反抗を行います。 物語終盤、3年後成長した帆高に須賀が「青年」と呼びかける場面がありますが、単純な時間経過だけでなく、この場面から帆高が青年へと変わったと見ることが出来るのではないかと思います。

2. なぜ敢えて『君の名は。』に似せるのか。

さて、ここまでの流れを追うと、逆の主張をしているにも関わらず何故『君の名は。』と似た構造をとるのか、何故敢えて『君の名は。』のキャラクターを登場させるのかと云う点が疑問として浮かんできます。

先述の通りまずは「粋な計らい」、そして、『君の名は。』と同じ文法で読み解いてよいことの明示的な宣言であると考えられますが、加えて私は、『天気の子』が『君の名は。』の影のような存在であることを示しているのではないかと考えています。 新海監督はインタビューの中で、『君の名は。』公開後に賞賛と同時に多くの批判を浴びたことを明かしています。 例として挙げられているのは「災害をなかったことにするのか」といった内容で、昨今国内外で発生している自然災害や紛争を考えれば仕方のないことだと思います。 これに対して新海監督は、「より批判を受ける映画を作ろうと思った」と述べており、結果として先にも述べた「個人的なエゴを貫く」話が出来上がったのではないかと考えられます。

www.sanspo.com www.cinematoday.jp

つまり、「批判上等、俺たちは自分のために、やりたいことをやるぜ」と。 物語の世界ではなく、現実世界において『天気の子』は『君の名は。』(もしくは、『君の名は。』への批判)に対する返歌だったのではないかと考えている訳です (返歌と表現したのは、その作法もさることながら、前作からRADWIMPSさんが歌われている主題歌や挿入歌をキャラクターのモノローグや「地の文」を表現するセリフの一種として使っていることを監督自身が公言していることから)。

3. 罪に対する罰

これは賛否別れるところなのかもしれませんが、私がこの映画に非常に好感を持ったのは自分のエゴを通した末の罪が安易に赦されなかった点です。前作『君の名は。』でも主人公:瀧は変電所の爆破や無線の乗っ取りなどの犯罪行為に手を染めますが、これは誰からも咎めを受けることはありませんでした。もちろん、関係者は全員この行為によって命を救われていますし、現場や証拠は全て彗星で消し飛んでしまいましたから、咎めるも何もないのですが。 しかし、当たり前ですがルール違反をすれば迷惑を被る人がいます。どんな理由があったにせよ(情状酌量の判断はあるとしても)その責任は取らなくてはなりません。 作中風にいえば、「代償を払わなくてはならない」訳です。 帆高は再三に渡って須賀に警告されたにも関わらず(つまり、代償があることを承知の上で)己のエゴを通すために警官に銃を向けました。そして、彼はそのことを悔やんでいなければ、その罰も、警察に追われていると周囲に噂されることも苦にしてはいません。 (この辺りは、卒業式あたりのモノローグから明らかです) この物語は、自らの責任で自らの願いのために行動し、その代償として罰を受けて、それでも尚ハッピーエンドなのです。

●最後に

最後になりましたが、『天気の子』のサブタイトルは『weathering with you.』です。 「weather」というと「天気」のことですが、「weathering」では「風化」のことを指します。 直訳すれば、「あなたと風化する」。 意訳するなら「あなたと一緒に朽ちていく」、「あなたと共に生きていく」となります。 「自分の願い」の結末が「共に生きたい」であることの美しさは、個人的には「運命」に勝るとも劣らないものだと感じます。

ここまで長々と私見に満ちた記事にお付き合いただき本当にありがとうございました。 思いつくままに駄々らに書き連ねましたので、読み辛いところ、意味がわからないところ等々あるかと思います。 追々直していこうと思いますので、コメントを頂戴できれば幸いです。 演出の答え合わせがBD特典に収録されることを願いながら、筆を置きます。

讃川@iB